2012年5月31日木曜日

●東京中央郵便局(建設中)

建設中の東京中央郵便局。新しい名称は「JPタワー」である。一時は完全取り壊しかと思われたが、解体現場にかけつけた鳩山邦夫がストップをかけるという一幕もあった。しかし、写真からわかるように、このような保存方法は外観だけを保存した一部保存に過ぎない。近年、歴史的な貴重な建築物は、巨大な高層ビルの一部として外観だけ残して、再建されることが多い。確かに、こうすればたしかに「外側」だけは保存されるが、はたしてこれで建築の本質は保存されたことになるのだろうか。建築の本質は、おそらく内部の構造も含めてのもののはずである。このような外壁だけ残す保存方法は単なる「張りぼて」にすぎないように私には思える。 (撮影日:2012年5月20日)

●東京中央停車場乗車口(南口)原図

辰野金吾、石川島造船所設計;大林組施工;明治41年~大正3年(1908~1914) 東京中央停車場の乗車口(南口)の原図である。戦災で焼け、修理されたが、ひどい形になった。辰野は赤レンガを愛し、執着した。赤レンガスタイルの最大の普及者は辰野である。(『建築雑誌』No.286から)

2012年5月29日火曜日

●東京海上ビル

曾根達蔵・中条精一郎・高松政雄・内田祥三設計:東京丸の内:大正3~6年(1914-17) 曾根・中条事務所の作品で、丸の内の高層ビルの中では最も早く建てられた方である。アメリカ式ではあるが、佐野理論にもとづき、内田祥三がとくに太い鉄骨を設計しておいたので、震災のときにもわずかの損傷ですんだ。屋上のパラペットを木造銅板張りにして軽くするなど、できるかぎりの耐震的配慮がなされていた。見栄えのしない建物であるが、日本の建築界にとっては重要な意味をもつ作品である。(昭和40年11月撮影)

2012年5月15日火曜日

●東京逓信病院

山田守設計、大倉土木施工、東京富士見町、昭和10~12年:分離派建築会の同人だった山田は、やがて表現主義を離れて「国際様式」に転ずる。吉田の東京中央郵便局にみられるように、いささか自虐的に、硬化した禁欲的教条主義がとられた。単純に徹することが近代的であるという確信である。しかし、こういう明快な思想統一が、近代建築の確立には、一度は必要であった。(『逓信建築』から)