2012年7月12日木曜日

●日本興業銀行

[渡辺節・山崎源逸・内藤多仲設計:大林組施工:東京丸の内:大正10~12年(1921-23)]
東京タワーの設計などで知られる内藤多仲が設計に携わっている。関東大震災では多くの建物が倒壊あるいは損傷したのだが、その多くがアメリカ式の工法によるものだったからである。アメリカ式の工法は、コスト重視のため、建物は短い工期と安価な材料によって作られ、日本が地震多発国であるという事情を考慮するものとは言えないものであった。日本興業銀行は、頑丈な鉄骨をさらに鉄筋コンクリートで包み、建物の要所要所に耐震壁を設けたために、関東大震災にも持ちこたえた。現在の鉄骨鉄筋コンクリート造りの元祖とも言える作品である。

 


 

2012年7月4日水曜日

●丸善

[佐野利器設計:清水組施工:東京日本橋:明治41年~42年(1908-09)]
佐野利器は、サンフランシスコ大震災(明治39年)の被害状況を調査し、鉄骨を主体とした建築物の耐震性を学んだ。そして、試作として、アメリカ式の鉄骨主体の丸善を設計した。鉄骨のみの建物は耐震にすぐれているが、鉄は熱に弱いため、耐火上は弱い。そのため、鉄を覆う膜があったほうがよい。写真からはわかりにくいが、壁はレンガ壁となっていて、レンガは建物を支える役目をもっておらず、単なる耐火被覆の役割しかはたしていない。これは、「鉄骨帳壁作り」と呼ばれるアメリカ方式の技法であり、カーテンウォールとも呼ばれている。この工法は、後の日本のレンガ作り建築の標準となった。

2012年7月2日月曜日

●浅草凌雲閣



浅草凌雲閣です。東京スカイツリーが一般公開されたのが、今年の5月22日でした。昔から人々は高い建物に対して憧れのようのものを抱いていたのかもしれません。
ところで、明治時代には、浅草に「凌雲閣」という名の搭がありました。[バルトン設計、和泉孝次郎施工:東京浅草:明治23年(1890)]
当時の浅草の名物で、12階建て、高さ50メートルのレンガ造りの八角塔です。すでに大阪に同じ名前の塔があったので、こちらは「浅草の12階」と呼ばれていました。なお、大阪の凌雲閣は9階建て、高さ39メートルということですから、浅草の塔のほうが高いということになります。八角の一辺はおよそ、4.5メートルほどであり、最上部二階は木造。日本で最初のエレベーターが設置されたということで、エレベーターマニアの人は要チェックです。ただし、危険なので2年後に廃止。10階までは普通階段、それより上は螺旋階段、9、10階に休憩所がありました。
さて、設計者である、バルトンは、全国都市の給水施設の基本を作った功労者であり、そのため、給水塔、灯台の建築には精通していたのかもしれませんが、外人ということもあり、凌雲閣については、地震国日本の事情をあまり考慮しない設計だったと言えるのかもしれません。明治27年の震災に耐えた凌雲閣も、関東大震災では、9階より上が崩壊、さらに火災により焼け爛れました。関東大震災では、多くの建物が倒壊しましたが、日本の建築を考えるうえで、避けることのできない問題のひとつだといえるでしょう。
なお、パリのエッフェル塔の建設は、明治22年の万博でのことである。