2012年12月15日土曜日

●旧藤澤カントリー倶楽部・クラブハウス

‎この建物は昭和7年(1932年)開場のゴルフ場「藤澤カントリー倶楽部」のクラブハウスでした。アントニン・レーモンドによる設計で、現存する日本最古のクラブハウスになります。(「善行雑学大学寄贈の案内板」より、2012‎年‎10‎月‎4‎日撮影)

2012年10月31日水曜日

●東京拘置所

東京拘置所です。写真だとややわかりにくいですが、全体の色は白ではなく、緑っぽい感じです。表現派を代表する建築として、以前取り上げた豊多摩監獄(後の中野刑務所)と並び有名な作品です。素人が見ても斬新なデザインだと思います。しばしば指摘されるように、まるで羽を広げた鳥のようです。昭和5年、蒲原重雄による設計。(撮影日:2012年9月8日)

2012年8月31日金曜日

●JR倉見駅

モダンな作りの駅舎である。大正15年に製作される。現存する相模線の中で最も古い駅舎である。残念ながら設計者は不明。関東大震災直後に建造され、耐震のために、鉄筋コンクリート作りで製作された。なお、となり駅の「社家(しゃけ)」も倉見駅同様モダンなデザインである。

2012年7月12日木曜日

●日本興業銀行

[渡辺節・山崎源逸・内藤多仲設計:大林組施工:東京丸の内:大正10~12年(1921-23)]
東京タワーの設計などで知られる内藤多仲が設計に携わっている。関東大震災では多くの建物が倒壊あるいは損傷したのだが、その多くがアメリカ式の工法によるものだったからである。アメリカ式の工法は、コスト重視のため、建物は短い工期と安価な材料によって作られ、日本が地震多発国であるという事情を考慮するものとは言えないものであった。日本興業銀行は、頑丈な鉄骨をさらに鉄筋コンクリートで包み、建物の要所要所に耐震壁を設けたために、関東大震災にも持ちこたえた。現在の鉄骨鉄筋コンクリート造りの元祖とも言える作品である。

 


 

2012年7月4日水曜日

●丸善

[佐野利器設計:清水組施工:東京日本橋:明治41年~42年(1908-09)]
佐野利器は、サンフランシスコ大震災(明治39年)の被害状況を調査し、鉄骨を主体とした建築物の耐震性を学んだ。そして、試作として、アメリカ式の鉄骨主体の丸善を設計した。鉄骨のみの建物は耐震にすぐれているが、鉄は熱に弱いため、耐火上は弱い。そのため、鉄を覆う膜があったほうがよい。写真からはわかりにくいが、壁はレンガ壁となっていて、レンガは建物を支える役目をもっておらず、単なる耐火被覆の役割しかはたしていない。これは、「鉄骨帳壁作り」と呼ばれるアメリカ方式の技法であり、カーテンウォールとも呼ばれている。この工法は、後の日本のレンガ作り建築の標準となった。

2012年7月2日月曜日

●浅草凌雲閣



浅草凌雲閣です。東京スカイツリーが一般公開されたのが、今年の5月22日でした。昔から人々は高い建物に対して憧れのようのものを抱いていたのかもしれません。
ところで、明治時代には、浅草に「凌雲閣」という名の搭がありました。[バルトン設計、和泉孝次郎施工:東京浅草:明治23年(1890)]
当時の浅草の名物で、12階建て、高さ50メートルのレンガ造りの八角塔です。すでに大阪に同じ名前の塔があったので、こちらは「浅草の12階」と呼ばれていました。なお、大阪の凌雲閣は9階建て、高さ39メートルということですから、浅草の塔のほうが高いということになります。八角の一辺はおよそ、4.5メートルほどであり、最上部二階は木造。日本で最初のエレベーターが設置されたということで、エレベーターマニアの人は要チェックです。ただし、危険なので2年後に廃止。10階までは普通階段、それより上は螺旋階段、9、10階に休憩所がありました。
さて、設計者である、バルトンは、全国都市の給水施設の基本を作った功労者であり、そのため、給水塔、灯台の建築には精通していたのかもしれませんが、外人ということもあり、凌雲閣については、地震国日本の事情をあまり考慮しない設計だったと言えるのかもしれません。明治27年の震災に耐えた凌雲閣も、関東大震災では、9階より上が崩壊、さらに火災により焼け爛れました。関東大震災では、多くの建物が倒壊しましたが、日本の建築を考えるうえで、避けることのできない問題のひとつだといえるでしょう。
なお、パリのエッフェル塔の建設は、明治22年の万博でのことである。

2012年5月31日木曜日

●東京中央郵便局(建設中)

建設中の東京中央郵便局。新しい名称は「JPタワー」である。一時は完全取り壊しかと思われたが、解体現場にかけつけた鳩山邦夫がストップをかけるという一幕もあった。しかし、写真からわかるように、このような保存方法は外観だけを保存した一部保存に過ぎない。近年、歴史的な貴重な建築物は、巨大な高層ビルの一部として外観だけ残して、再建されることが多い。確かに、こうすればたしかに「外側」だけは保存されるが、はたしてこれで建築の本質は保存されたことになるのだろうか。建築の本質は、おそらく内部の構造も含めてのもののはずである。このような外壁だけ残す保存方法は単なる「張りぼて」にすぎないように私には思える。 (撮影日:2012年5月20日)

●東京中央停車場乗車口(南口)原図

辰野金吾、石川島造船所設計;大林組施工;明治41年~大正3年(1908~1914) 東京中央停車場の乗車口(南口)の原図である。戦災で焼け、修理されたが、ひどい形になった。辰野は赤レンガを愛し、執着した。赤レンガスタイルの最大の普及者は辰野である。(『建築雑誌』No.286から)

2012年5月29日火曜日

●東京海上ビル

曾根達蔵・中条精一郎・高松政雄・内田祥三設計:東京丸の内:大正3~6年(1914-17) 曾根・中条事務所の作品で、丸の内の高層ビルの中では最も早く建てられた方である。アメリカ式ではあるが、佐野理論にもとづき、内田祥三がとくに太い鉄骨を設計しておいたので、震災のときにもわずかの損傷ですんだ。屋上のパラペットを木造銅板張りにして軽くするなど、できるかぎりの耐震的配慮がなされていた。見栄えのしない建物であるが、日本の建築界にとっては重要な意味をもつ作品である。(昭和40年11月撮影)

2012年5月15日火曜日

●東京逓信病院

山田守設計、大倉土木施工、東京富士見町、昭和10~12年:分離派建築会の同人だった山田は、やがて表現主義を離れて「国際様式」に転ずる。吉田の東京中央郵便局にみられるように、いささか自虐的に、硬化した禁欲的教条主義がとられた。単純に徹することが近代的であるという確信である。しかし、こういう明快な思想統一が、近代建築の確立には、一度は必要であった。(『逓信建築』から)

2012年2月25日土曜日

●東京中央電話局

山田守・内藤多仲設計:安藤組施工:東京丸の内:大正11年~14年(1922-25)逓信省は新建築を最も積極的に推進した官庁であった。この建物の倣物線アーチを並べた側面は、長く国電山手線の車窓から親しまれた。習作では自由で多様な創意にあふれていた分離派も、実作品では現実の強い束縛を感じないわけにはいかなかった。「国際様式」への接近は時間の問題であった。(『東京横浜復興建築図譜』から)

●豊多摩監獄

横浜勉・後藤慶二・久田喜一設計:東京野方:明治43~大正4年(1910-15)大正初年の最もすぐれた建築思想家後藤慶二の代表作。セセッション、オランダ新建築の影響のなかから、建築表現の自由と自主性を獲得しようと努力し、その結果、表現主義を予見する作品となった。中央が事務所、左右は分房監。刑務所という冷たい環境に、中央の事務所の建物がヒューマンな暖かさと思いやりを与えていることに注意しよう。(『建築雑誌』No.342から)

2012年1月23日月曜日

●天竜門

伊東忠太設計、東京上野不忍池、大正2~3年建立。不忍弁才天の神門で、下町の子供は「竜宮城」とみなして親しんだ。日本・中国・インドの様式が混合している。戦災で消失。現存しない「幻の建築」である。下層のみコンクリート、上層は木造。